八重瀬町の平和学習 沖縄戦遺跡
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沖縄戦末期の戦場となった八重瀬町には住民と日本軍を犠牲とした戦跡(ガマ)が数多く残されている。沖縄戦の実相と悲惨さ、平和と『命ど宝』(ぬちどぅたから)を子供たちへ伝えることがガイドの会の使命です。 |
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〇八重瀬町戦争遺跡公園 (ヌヌマチガマ)
八重瀬町新城に戦争遺跡公園として整備されたヌヌマチガマがあります。沖縄戦で第24師団第一野戦病院新城分院として使用され、5月下旬頃には負傷兵1,000名が収容されたガマです。負傷兵を看護するため白梅学徒5名が派遣され看護の補助活動を行っていました。6月3日、閉鎖命令により約500名の重症兵が処置(青酸カリ等により自決)されました。
ガイドは子供たちと一緒にガマに入壕し、ここで起こった負傷兵らの悲劇と白梅学徒の献身的な行動を伝えます。 |
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〇八重瀬公園(第24師団第一野戦病院手術場壕跡)
八重瀬町富盛の桜で名高い八重瀬公園駐車場側に第24師団第一野戦病院手術場壕跡があります。第一野戦病院壕は八重瀬公園に上がる道路の左側の土手にありました。1945年3月6日から白梅学徒56名が東風平国民学校(現東風平中学校)で看護教育を受け、米軍の上陸が間近い3月24日にこの壕に入り、70日間にも及ぶ補助看護活動を行いました。6月4日の解散命令により、鉄の暴風が吹き荒れる南部地区を彷徨し22名が亡くなりました。
現在は落盤の危険があり壕内には入れませんが、ガイドは白梅学徒の足跡と沖縄戦の悲惨な実相に迫る説明をさせて頂きます。 |
島尻南部の戦い(6月4日頃の日本軍配備)
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富盛の大獅子
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日本軍第32軍は、5月下旬に首里司令部から摩文仁へ撤退した。
八重瀬町(現在)の具志頭城址~玻名城~八重瀬岳を右第一腺として米軍を迎え撃とうとしたが、既に兵力は当初の11万人から2万~3万人と精鋭部隊は消耗し、重火器は皆無に近かった。6月下旬まで島尻南部の戦いはガマのなかに避難していた住民を巻き込み想像を絶する悲惨な戦いとなった。
富盛の大獅子は沖縄戦で幾多の銃弾を受けながら、現在も八重瀬岳を見守り続けている。 |
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※八重瀬町ガイドの会 平和学習について
本ページで紹介した戦跡を含め、八重瀬岳の戦闘や富盛の大獅子に残されている弾痕跡などをご紹介し、沖縄戦と平和の大切さを伝えることができますので、ご気軽にご相談ください。 |
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ご要望により総合学習等に対応するまち歩きコースを調整できます。 |
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ご要望により平和学習講話及び八重瀬町内の他の戦跡を活用した平和学習ができます。 |
設立 |
2013年(平成25年)9月 |
会長 |
嘉数 千秋 |
構成員 |
22名 (2024年5月現在) |
事務局 |
八重瀬町観光物産協会内 |
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やえせのシーちゃん |
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